永遠の卵

いろんなはなしする。

姫宮アンシー/高倉陽毬 ということ

柩の中の女の子

姫宮アンシーは、かつて柩の中の女の子でした。
少女革命ウテナ』はざっくりまとめるなら、王子さまの呪いにかけられた女の子(=ウテナ)と、お姫さま/魔女の呪いにかけられた女の子(=アンシー)が、その苦しみから解放されようとする物語です。舞台となる“鳳学園”と、その学園の理事長代理兼アンシーの兄である鳳暁生は、彼女たちを呪縛する社会そのものを象徴し、あらゆる女性嫌悪を内面化した彼女たちの心情は、たびたび禍々しい"柩"によって表現されました。

(この説明はものすごくざっくりで、わたしは誤解をたいへん恐れているので、できればほかの記事も読んでほしいな)

アンシーは、“民衆”の求めるお姫さま像/魔女像を体現するため、元来の"姫宮アンシーらしさ"を柩の中に閉じ込め、“薔薇の花嫁”すなわち「心のない人形」に成り果てる。それは、“婚約者”のいうことに素直に従い異を唱えない、モテる女のさしすせそ、王子さまに代わってこの世の憎悪をすべて引き受ける「べき」存在です。いわば彼女は、本来纏められるべきでない女の人生をすべて背負った“概念”のようなものなのです。そんな彼女が、ウテナの友情によりその柩から出て、鳳学園の外に一歩を踏み出すということは、これまでの幾千ものプリンセスの物語を脱ぎ捨て、姫宮アンシーという一人の人間を探しにゆくということなのです。自らを苦しめる柩から逃れ、男を支え犠牲となる役割を放りだすこと。これは他に解釈のしようがないほど途方もない、真実のハッピー・エンドです。

 

捨てられない女の子

ところで、『輪るピングドラム』のヒロイン・高倉陽毬もまた、構造上は柩の中の女の子でありましょう。アンシーの柩は彼女の眠るベッドや兄たちが装飾をほどこした家、つまりは“家族愛"へと成り代わり、彼女は時折不自然なほどにもの言わぬ、"理想の妹"であり続けます。彼女がほとんど最後まで天使のような、聞き分けのよい妹であることは、ストイックに“お姫さま”を演じることで反対に“魔女”の様相を呈してしまったアンシーにくらべ、その呪縛はより優しく、より複雑、より残酷なものとして描かれています。

ウテナ』の鳳暁生は、少女たちを呪縛する存在であったと同時に、彼もまた柩に閉じ込められた“透明な存在”であったのです。しかしながらアンシーはそんな“哀れな男”に見向きもせず、彼を捨ててしまう。その理由はこの物語の主題が「少女革命」であったからに他ならず、それにはいつ何時も”男“という概念の存在は不必要なのです。

けれども、家族を描くことは、概念とは違ったひとりの“人間”、つまるところアンシーの行方を描くということは、悲しいほどに残酷だ。そこに“悪人”や“支配者”はどうしたって存在できないから。わたしは鳳暁生を悪人として解釈できるけれど、同じく“兄”であり“男”である冠葉と晶馬についてはそういうわけにもいきません。なぜなら陽毬は、自らすすんで呪縛を選択している。

冠葉はいつも間違いを犯しています。でもそれは妹を救うためで、容易く彼を罰することはできない。
いっぽう晶馬は間違いこそ犯さないけれど、“何もしない”ということは、つまり妹を見殺しにするということだ。

ふたりは、どちらも間違っていて、どちらも正しい。そのことを、陽毬は心底“わかっている”のです。

陽毬を選んだ家族が、あのように罪深き人間たちの集まりであったことについて、わたしはどのように考えたらよいのだろう。『氷の世界』で、彼女が探していた物語とはいったい何であったのだろう。

陽毬の母親は、我儘を言う娘に大怪我を負わされたのにもかかわらず、彼女を許すどころか体の心配までするのです。「あなたが無事でよかった」と傷の残る顔で微笑む母は、つまりその善意による威圧は、陽毬にはどことなく恐ろしく感じられる。こんなところにも柩があるのだから。

同じ夢を追っていたかつての友人たちとは、やむを得ずお別れをしなければなりませんでした。でもその友人たちは、陽毬を置き去りにしてその夢を叶えてしまいます。そのことについて彼女は「全然気にしていない」という。友人は怪我をした陽毬の母親のために尽くしてくれた。そんな彼女たちの優しさを、陽毬は知っているからです。それでも彼女はいつもいつも、浮かない顔でテレビの画面を、電車の広告を、「夢をあきらめないで 夢打球」なんて皮肉を、見つめている。

かつてアンシーを解放したウテナは、いいえ、『ピングドラム』では眞俐という名前でしたが、幾度となく陽毬やその兄たちに、“家族”からの解放を促すのです。母の顔に暗い影をさし、「実は友人を恨んでいたりして」なんていって、「君はなぜそんな酷い目にあったの?」なんて聞いたりするのだから、侮れない。

両親や兄や友人が酷い人間であれば、その物語をついに思い出すことができれば、彼女は”妹“を辞められたはずだ。でも父親への憧憬を抱えた冠葉も、冠葉から苹果を受け取ってしまった晶馬も、幸か不幸かこどもブロイラーへはゆかず、”透明な存在“にはなれなかった。

人間は、本質的には善人にも悪人にもなれない。ただ自分自身にしか。
善悪が絡み合った自分自身の光と闇を、メタファーである眞俐と桃果のように切り離すことはできない。その複雑に絡み合ったままでいる自分とその生活の営み、それこそがピングドラムだとおもうのです。

さて、わたしは多くの人に訊ねてみたいのだけど、『輪るピングドラム』はハッピー・エンドだったのでしょうか。それともバッド・エンド?

冠葉と晶馬は、陽毬を”解放“したがった。しかしながら、その結果は正反対のものになる。
表面的にいえば、兄妹やその家族の罪は消えました。でも、ぬいぐるみに残った”家族“だけがずっと消えてくれない。”愛してる“が消えない、呪縛という柩が消えない。バッド・エンドだ。

でもそれが消えた世界を想像するのなら、きっとその世界もまた冷たく残酷な、氷の世界だ。透明で、誰が誰だかわからないのだから。

誰と出会うことも、会話することもなく生きてゆく。伸ばした手は、壁にぶつかり永遠に届かない。その事実が、わたしにとってのこの物語を、真実のハッピー・エンドにする。陽毬はずっと苦しみ続けることになる。こんなにも複雑で厄介な”愛“によって。