永遠の卵

正しい幻想の使いかた

ハン・ガン『別れを告げない』と〈共感〉──そこにいたのか

ハン ・ ガンの小説は、共感の力に満ちている。
といって、 私の意図がどれほど正しく、実感をともなって誰かに伝わるのだろう。 言葉は日毎、 凡庸になっていく。私は焦り、また言葉を内側から喰い破りたいという衝動に駆られる。

たとえば私の知人などは、共感という力を単なる同調圧力でしかないときっぱり切り捨てたし、 また別の知人は、相手の言葉を決して否定しないことをそれと呼び、 優しさや思いやりに並べ、とても重要なことだと考えていた。共感されて嬉しいという人もいたし、 迷惑だという人もいた。どの意見も間違っているとは思えないが、 そもそも 〈共感〉をなぜこんなふうに価値づけるのか、私には理解できない。

共感とは、 一人では生きていけない社会的動物である人間の脳みそに備わった、 ひとつの機能に過ぎないと思う。 人間にもそれぞれ性能というのがあり──それは育った環境や教育、 文化、 ジェンダーなどとも関わりがあるのだろうが──すぐさま上げろといって上がるようなものでも、 下げろといって下がるようなものでもない。 エアコンや掃除機や洗濯機が、 ひとりでにその機能を操作することはないのだから。

私は共感を否定も肯定もしない。 称揚することもしないし、 かといって切り捨てもしない。 私は価値づけを望まない。 ただ、 自分自身とは決して切り離せないその機能に触れようとする時の、 うんざりするような手触りなら知っている。 だからこんなことは言える。 とても痛ましいと。

別れを告げない

さて、 本の内容からずいぶんとかけ離れてしまった。
ハン ・ ガン 『別れを告げない』  は、 本書冒頭にもあるように 「朝鮮半島の現代史上最大のトラウマ」 である済州島四 ・ 三事件を背景に描かれている。そのことについては、 本書の翻訳者である斎藤真理子氏の解説に譲りたい。私がここで拙い説明を繰り返す必要はほぼないと言っていいだろう。
むしろ私の関心は、そうした出来事それ自体よりも、あまりにも大きな暴力と痛みの中に置かれたとき、人間の感情というものがどういった動きを見せるのか、という点にある。

物語は、 職も家族も失って失意の底にあるキョンハが、 旧友のインソンから突然の呼び出しを受けるところからはじまる。

インソンは九歳の頃に父を亡くし、 四年前に認知症の母を介護の末に見送っている。 その後は実家のある済州島の村で、二羽の鳥と木工の仕事をして暮らしていた。しかし、キョンハと交わしたある約束にまつわる作業中、 事故で指を切り落としてしまう。

ソウルの病院に運ばれたインソンに鳥の世話を頼まれたキョンハは、猛吹雪の済州島に向かう。その道中から、夢とも現ともつかない、痛みに満ちた邂逅がはじまるのだ。

 

 

〈共感〉というあり方

私がこの本を読みすすめるうちにひとつずつ心に留めていったのは、キョンハとインソン両者の態度というべきか、 ある状態(・・)のようなものだった。

キョンハの場合

キョンハは、 二〇一二年に 「虐殺と拷問について」(21) の本を書くための資料に触れた時からある悪夢に悩まされている。 それはその本を出版してからも続き、 彼女はそれを書いたことによる 「(…)苦痛はいつか振り切れるだろう、 痕跡は簡単に消し去れるだろうと、 私はなぜそんなにも純情に──厚かましく──思い込んでいたのだろう?」(〃) と振り返っているが、ここにはすでに暴力と痛みに触れた彼女の、逃れがたいある状態が現れている。

さらにキョンハは、インソンの入院した病院で、 切り落とされた指の写真を前にする。

(…)目をそむけたくなるのをこらえてしばらくじっと見た。 実際よりも怖い記憶として定着してしまうこともあるから、 最初に直視しておこうと思ったのだ。 けれども私の考えが間違っていた。 それはまともに見れば見るほど苦痛な写真だった。(…)

ハン・ガン(2024)『別れを告げない』(斎藤真理子)白水社 p.30

ここにあるのは、痛みにどう向き合うかをめぐって、想像と直視のあいだに揺れるキョンハの姿だ。

またインソンは切断された指の神経をつなげるために、三分に一度その傷に針を刺すという治療を受けているが、 キョンハはそれを見て「インソンの家族でなくてよかった」(39)と考える。 インソンに針を刺さずに済むからだ。友人の痛みに関与せずいられることへの安堵である。

蝋燭の火に導かれ、 事件の記憶に深く降りてゆこうとするときも、 彼女は幾度か抵抗を見せさえする。

もうこれ以上骨を見たくない。 これらを集めた人の指紋と私の指紋が重なることを私は望んでいない。 (…)それを広げたくない。 いかなる好奇心も感じない。 そのページをめくることを誰も私に強制できない。 服従する義務が私にはない。

同上,pp.260-261

これら描写からは、痛みに触れたときにそれを引き受けきれず、距離を取ろうとするキョンハのあり方が見えてくる。
共感が、他者の痛みを想像し自分ごととして感じようとする能力なのだとすれば、その苦痛は当然のことのはず。とりわけキョンハはものを書く人だ。 何かについて書くということは、その対象に対して深く感情移入し、没頭することだから。

インソンの場合

そしてインソンの場合、ことはもっと直接的であり、本質的だ。
キョンハにとって痛みは、あくまでも想像を通じて触れるものであり、まただからこそ距離を取りうるものであっても、インソンにとっては違う。彼女にとって痛みは、幼少の頃から家族という関係のなかで、逃れることのできない形で現れているからである。

インソンはキョンハに対し、十八歳の頃の家出話を語ったことがある。 彼女の母からインソンへの愛が、 祖母から孫への愛がそうであるように 「ただただ、与えてくれるだけ」(68)のものと印象づけられていたキョンハは、 母娘の間に隠されていた複雑な感情に驚かされる。

インソンはその家出の動機を 「生きたかったから」(73)だと言うが、母への嫌悪にまつわる語りははじめ、単なる思春期や反抗期によるそれとも区別がつきにくい。しかし、 生きたかったから」とは。 語りは深く降りてゆく。 

インソンは家出の当日、 母の部屋を見まわしたときの決意をこう回想している。

(…)その布団の下に糸鋸が置いてあることを私は知ってたの。 鋭く尖った金物を敷いて寝ると悪夢を見ないっていう迷信を、 母さんは信じていたからね。 でも、 糸鋸を敷いたって母さんはしょっちゅう夢を見てたんだよ。 息を殺して身震いして、 ときどき野良猫みたいな変な声を上げて泣きじゃくって。 あの姿とあの声が、 私にとっては地獄だったの。 後悔はしない。 もう戻らないってそのとき自分に誓ったんだ。 もうこれ以上あの人に私の人生を暗く染めることは許さないって。 曲がった背中と、 ぞっとするほどかぼそいあの声で。 この世でいちばん弱々しい、 怯えきった人間の姿で。

同上,p.70

語りの中で明かされることだがインソンの母 ・ 正心(ジョンシム)は、 十三歳の頃 「軍と警察が村の人を皆殺し」(75)に来たとき、 運良く親戚の家にいて生き延びた。しかし家族のうち姉以外、 つまり両親と八歳の妹を亡くし、 逮捕された兄も行方不明のままだ。 またインソンの父も、 事件や拷問の後遺症とその記憶に蝕まれていた。 そんな両親の体験が、インソンの内面に深く刻み込まれていることは確かだろう。 

後遺症を抱える母の介護は極めて壮絶だったが、 母を見送ってなお、 その影響力は続いた。

変だよね。 母さんがいなくなったら、 とうとう私の人生に戻れると思っていたのに、 戻るための橋が切れてしまって、 もうなかったの。 私の部屋まで這ってくる母さんはもういないのに、 眠れなかった。 死んで逃げ出す必要はもうないのに、 まだ死にたかった。

同上,p.290

キョンハの場合と同様に、ここでも一度触れたものから離れることはできない。ただしインソンにおいてそれは、関係そのものに結びついた形で、終わることなく持続している。

だから私は、共感を否定も肯定もできない。だって、なぜそんなことができるんだろう? 私は価値づけを望まない。なぜなら、ただ、痛ましい。

跳ね返りとトラウマ

この小説を読みながら私は、 痛みに触れた人間がどのようにそれに巻き込まれていくのかについて、ある一冊の本のことを思い出していた。ずっと読まなければと思ってはいて、 でも、 心のどこかではずっと拒絶していた本について。

その本のタイトルは 『跳ね返りとトラウマ』。 
著者のカミーユ ・ エマニュエルは、 二〇十五年にパリで起きた 「シャルリ・エブド襲撃事件」 を生き延びた画家の妻で、 PTSDを発症した夫と、 事件後に生まれた娘の育児をしながら、 なんとか日々を生き延びようとしている。

この本では、 直接に事件の被害者となった人ではなく間接被害者──つまり直接被害者にとってきわめて近い立ち位置にいて、 彼らの苦しみを目の当たりにしてきた人──にスポットを当てている。事件後、 夫に付き添って受けた心理面接でかけられた言葉に、著者は違和感と驚きを覚える。

最後に、 その心理士は私に向き直ってたずねた。 「それで、マダムは大丈夫ですか?」 驚いた。 私は付き添ってきただけなのに。 「あなたは被害者の近親者ですから、 跳ね返りによる被害者なのですよ」。(…)

カミーユ・エマニュエル(2022)『跳ね返りとトラウマ そばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子)柏書房 p.17

跳ね返り(リコシェ)とは、フランス語で石の水切りや跳弾を意味する言葉だ。 銃弾が跳ね返り、 その影響を受けざるをえない人々。 

当初この呼び名に戸惑い、 反発すら覚えたエマニュエルだったが、 結局は自分や、 自分と似た苦しみを持つ人々の物語について聴き、 書くことで、 その体験を正確に捉えるための言葉を探究しはじめることになる。 
その中には、 「パートナーがストレスを受けていることをその鳴き声から察知すると、 自分も同じようにストレスを感じる」(180)らしいキンカチョウ (つまり鳥だ) に関する考察も登場する。小説の中でも鳥は重要なイメージとして登場するが、このことにも不思議な響き合いを感じた。

私はもちろんここでこの本を紹介することによって、 インソン (あるいはキョンハ) の状態が 〈跳ね返り〉 であると定義し、 法的に間接被害者として認められる、 などと言いたいわけでも、 ましてやハン ・ ガンが書きたかったのはそういった被害についてである、 と主張したいわけでもない。 この物語の本質は、 もちろんそこにあるわけではない。

そうではなく、 私はただ、 思ったのだ。 人間とは、いかなるものだろう?と。 親密な者、 愛する者の影響を強く受け、 同じように傷を受けてしまう。 一方で人は、 いったん敵と見做した相手には、 どこまでも残虐に、 どこまでも無関心になれる。

支えたいと強く願うのに、 深すぎる悲しみから人を救うことは容易ではない。 そのことにまた傷つき、 苛立ちさえする。 「誰かを救いたいなどと思うこと自体が傲慢だ」という言葉を耳にしたことがあるが、私はそれをどこまでも真実だと感じる。 だから私はそういう時、 自分は掃除機なのだ、 と思う。 エアコンや、洗濯機なのだと感じる。

人間とは、いかなるものだろう。
なぜ私は、 こんな生き物に生まれついたんだろう。

私はもうこれ以上、 人間は嫌だった。 キンカチョウも嫌だ。 疲れていたし、 何もかもを憎んでいた。 何もかもを憎んでいる自分を憎んでいた。 そんなふうに生きていたくはなかった。

私はペガサスが良い。 その卵は月の光から誕生し、 陽のぬくみによって孵る。 生後一日で自ら立ち上がることができ、 生後三日で翼を生やす。 その馬の寿命はおよそ三日と38万キロメートル。 空の上の月まで一生をかけ、 たったひとりきりで飛んでいく。 そしてようやく月に辿り着いた時、 彼は息絶えるのだ。 月の光は、 実はペガサスの死骸を燃料にしている。 私は月の光になりたかった。 それはいつでもちょうどいいから。 誰も傷つけないし、 誰にも傷つけられたりしないから。

どうだろう? ただ表面的に美しいだけで、 酷く稚拙な想像だとは思わないだろうか? 稚拙で、 一面的で、 無力だ。 現実逃避以上の力を持たない。
私が言いたいのは、 だから私はハン ・ ガンが好きだ、 ということなのだ。

ハン ・ ガンは、 私にとってはこれ以上ないほど残酷な作家。 真実を告げる作家。 真実を正面から捉えるから、 だからそれを乗り越える力を持った作家。

鳥の目

この小説が拒絶する私に強く訴えかけてくるのは、その象徴的で、重なり合い、膨らんでゆくいくつかの文学的イメージのせいだ。

中でも雪はひときわ大きな存在感を放っている。 
この小説の中で雪はキョンハの行く手を阻み、どこか不穏さを感じさせるイメージでもある。 雪は何かを閉じこめる。 雪は音を吸収するからだろうか? 生きた生命のぬくもりに触れなかったそれは、 溶けずにその顔を隠蔽する。 死の冷たさだ。 人の顔を隠す暴力だ。

けれど同時にキョンハは、 雪の、 ある真実めいた美しさに心惹かれもする。 雪の結晶に、 軽く、 細やかで、 繊細な仕組みを発見している。 この小説に登場する多くのイメージは、 それらひとつひとつが多面的な生命の、 複雑なあり方なのかもしれない。

雪を冷たいと感じる生命のぬくもりがある。 炎は、 痛ましい記憶だけではない。 弱々しく曲がった母の背中だけではない、 その中でも彼女が強く探し求めようとしたもの、 そこへ到達する道を照らす、 小さな生命の炎。「信じられないほど柔らかい感触と突き上がるような圧力」(184)。でもそれには、 一瞬しか触れていることができない。 危険だから。 だってまた生命そのものを焼き尽くす。 家、 木々、 村を焼き尽くす炎。

正心が亡くなった後、 インソンは母の闘いの道を細かに辿りながら、 それまでの逃げ出したくなるような苦痛とは違う、 もっと別の地点──「心臓が割れるほどの激烈な、奇妙な喜び」(292)──に到達している。 母やその島に埋もれている多くの骨と人生、 それらと自分の人生の境界線が溶けていくのを、 証言を読みながらたしかに感じる。 痛みを通じて、 溶けていく。

私にはわからない。 逃げ出したはずが立ち戻ってくる。 石になるとわかっていてなお、 振り返ってしまう。 月へ飛び立つのではなく、 海に飛び込むのだ。 救うために?
愛もまた、 ひとつの習慣なのかもしれない。 みかんを取り分ける。 大きい方をあなたに渡す。 そういう習慣。共感と同じ。

不可解さを抱え込みながらそれでも生きて、 想像して、 何かを感じて生きていく。 たしかに、 私はそれを知っている。 その先にだけ、 たしかにそんな恍惚があることも。 だって、 そうでもしないと生きていけない。そして、 そこから哀悼が始まるのだろうか。 

でも、 本当にそうやって生きていくつもり? 本当にそれを愛だの、 光だのと呼ぶつもりなの?

それともそれがレジリエンス──回復なのだろうか? 私にはわからない。 私はその指を諦めたのかもしれない。 「生きている人間らしく生きたいから」(17)。 だから今でも、 こんなにひどい幻肢痛を覚えることがあるのだろうか? 生きるとは痛みなのだろうか? わからない。

ただ、 一つだけわかることがある。
シャープペンシルをノックする音について。

私はこの本を読んでから、 シャープペンシルの芯を出そうとその頭を二回ほど親指で押し込む時、 なぜかその音を軽くて小さな、 ゆえに生き延びてきたすべての生命の鼓動だと感じるようになった。「すべてを賭けてでも避けたかった」(12)別れ、 という言葉が思い返されるのと同時に、 私の中にも二つの視野が生まれる。 夢と現、 二つの視野が。 そのことにはどうにも抗えない。

 

そこにいたのか。

それはすでに、 苦痛とは呼べない。 苦痛を呼び起こす声ではない。 ただそこにあるだけの、 生命そのものの、かさついた振動だ。 そこにいる。 あちらにいるはずのものが、 ここにもいる。 であれば私もまた、 どこかにいるのだろうか? 私の鼓動が、 ここにいるはずの鼓動が、 あちらにも、 あちらのどこかで、 空気を振るわせているのだろうか。 彼女の作り出す、 その残酷で誠実な夢のなかでなら?

人間とは、いかなるものだろう。

やめよう。
私は明日、 私のベッドで目を覚ます。

(2024.12.05)